〜 隠された宝 〜

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(『マタイによる福音書』13章44節)

 イエス様は、弟子や民衆に大切なことをお語りになるとき、よくたとえ話を使って話をしました。その例えは、その当時の日常生活に根差したものが多かったようです。当時、宝の安全な保管場所として地中に埋めるということはよくあったという話を聞いたことがあります。誰かがこの畑の場所に宝を隠し、時間と共に忘れ去られていたのかもしれません。

 私は、幼い頃、友達との遊びに使うビー玉の中で、特に色の違う綺麗なものを宝物扱いして、家の裏の土の中に埋めて隠していたことがあります。翌日、掘り返してそのビー玉を見つけ、くっついた土を払い落とすと、光に透かしてそのビー玉を見ます。何だか以前よりも美しく輝いていて、不思議なパワーが宿ったように感じたものです。今度は、また別の場所の土を掘り隠します。やがて、他の遊びに夢中になると、埋めたビー玉のこと、埋めた場所のことはすっかり忘れてしまいました。懐かしい思い出です。

 みなさんにとって大切な宝にはどんなものがあるでしょうか。先日、子ども達に、イエス様のこのたとえの話をした時、私自身、大切な宝と感じているものが結構たくさんあることに気づきました。あれも、これも・・・その中でふと思い出しました。運転免許証の中にそっと忍ばせていた我が子の幼い日の写真。もうクシャクシャになっていますが、私にとっては隠されていた宝です。

 さて、イエス様のこのたとえ話。初めて読むと畑に隠された宝(人生の知恵など)を私たちが見つけ出すというストーリーとして読む人が多いようです。私もその一人でした。でも、次のように読むと味わいが変わってきます。宝を見つけ出す人は神様。隠された宝(あるいは宝が隠されている畑)は私自身。私を見つけ出した神様は喜んでご自分の全てを犠牲にして、私を買い取ってくださる。

 子ども達は、私たちの宝であり、神様にとっても大切な愛する宝です。そして、子ども達だけではなく、私たち自身も神様の大切な宝なのです。

園長 松永 章(まつなが あきら)