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101. 常識のウソ(2014/09/11)

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101.常識のウソ(『平家』余聞――海峡からの展望   宮田 尚)

 東日本大震災がらみで、前回、前々回と、『方丈記』を引き合いに出した。

 『方丈記』は、よく知られた作品だ。大学で日本文学科に入学する学生なら、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という、あの冒頭部はたいてい暗記している。

 1年生の「古典文学概論」を担当していた頃のことである。入学直後の最初の授業は、『方丈記』の作者は誰か、との問いかけから始めることにしていた。学生たちはニコニコしながら、あるいは、何を今さら、といった怪訝な顔をしながら、鴨長明だと答える。学生の反応は、毎年同じだった。

 『方丈記』の作者を尋ねたのには、ふたつのねらいがあった。第1は、学生たちが信じ込んでいる常識の誤りを指摘すること。そして第2は、安易に権威に寄りかかるな、すべての権威も一度は疑ってみよ、それが真理探求の基本だと伝えて、これから始まる学生生活を方向づけること。

 さて、学生たちが答えたように、『方丈記』の作者を鴨長明だというのは、おそらく常識だろう。だが、その常識という名の権威は間違っている。それに気づかず、疑問さえ抱かずに従っているところが怖い。みんなで渡っても、赤信号は赤信号なのだ。

 『方丈記』の作者は、鴨長明ではない。蓮胤だ。理由は、はっきりしている。『方丈記』の最後に、「建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」とある。作者本人が、〈蓮胤〉だと書いているのだ。これほど確かなことはない。

 蓮胤とは鴨長明の法名、つまり出家後の名だ。しかし、同一人物だからといって、『方丈記』の作者を鴨長明と呼んでよいことにはならない。瀬戸内寂聴は、瀬戸内晴美ではない。

 また、たとえば「我輩は猫である」や「三四郎」の作者を、夏目金之助というか。「舞姫」や「高瀬舟」の作者を、森林太郎というか。英文学者夏目金之助が小説用の原稿用紙に向かったとき、彼は漱石になる。森林太郎が軍服を脱いでペンを握ったとき、彼は鴎外になるのだ。肉体は同じでも、意識は違う。そして読者は、作家の証として記した彼等の署名に従う。自明のことだ。

 『方丈記』の作者は、法名の前にわざわざ「桑門の」を冠している。出家者であることにこだわり、念押ししているのだ。『方丈記』の作者を鴨長明だとする世間の常識は、このような彼の思い、〈蓮胤〉と署名した重みを無視している。あるいは、気がつかないふりをしている。もってのほかだ。作者が蓮胤か鴨長明かは、作品の本質にかかわる問題だ。けっして、なおざりには出来ない。
      
 『方丈記』は、出家者としての蓮胤が、信仰にもとづいて書いた作品だ。法語と呼ぶのがふさわしい。『徒然草』と並び称せられることがあるけれども、「心にうつりゆくよしなし事」を気ままに書いた『徒然草』とは違う。『方丈記』は、構成がきっちりしている。さながら、一篇の論文だ。

 たしかに、『方丈記』を鴨長明の作だとする〈常識〉の歴史は古い。発端は、成立後あまり時を経ない頃まで遡る。しかしこれは、出家前の長明が、後鳥羽院の主宰する和歌所の寄人を勤めるほど著名な歌詠みだったからだ。当時は、あの長明が、という方が通りがよかった。便宜的なものだ。

 しかし、今はもはや歌人長明はいない。剃髪後の蓮胤を、鴨長明と呼ぶ理由はどこにもない。

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