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海音寺潮五郎著『孫子』(新装版、講談社文庫)紹介者:中尾健一郎(10/09/03)

紹介者:中尾健一郎

 わたしは中国文学が専門ですので、中国に関する書籍を取りあげようと思います。海音寺潮五郎(1901~1977)といえば、上杉謙信と武田信玄の戦いを描いた『天と地と』(1990年に映画化)をはじめとする日本の歴史小説が有名ですが、中国を舞台とするものもあり、『中国英傑伝』(文春文庫)、『中国妖艶伝』(文春文庫)が刊行されています。『孫子』は中国の春秋・戦国時代に活躍したといわれている兵法家、孫武と孫臏を主人公とする小説ですが、わたしが高校生の時に読んで感銘を受けたエピソードを2つ取りあげます。

 まず春秋時代の孫武についてです。呉王に仕えて功成り名を遂げた彼は、田舎に引退します。そこに呉王の重臣となった旧友伍子胥が訪ねてきて、国が危機に直面しているので、以前のように二人で呉を盛りたてようと勧めます。すると孫武は、「夏の裘(かわごろも)」のたとえを用い、季節をはずれた衣服はどんなに高価で美しくても役には立たないこと、それは人材についても同様であることを示してやんわりと断ります。人にはそれぞれ活躍できる時期があり、それを過ぎれば身を引いて安心立命を心がけるのが良いというのです。もう一度過去の栄光を追い求めようとすれば出来ないこともないはずですが、敢えてそれをしようとしない孫武の潔さに胸を打たれました。

  次は戦国時代の孫臏についてです。彼は信頼していた友人に罠にはめられ、足切りの刑に処せられます。しかしその後、孫臏は知恵をしぼって収容されている牢屋から必死の思いで脱けだし、愛する女性の助けを借りて窮地を脱して帰国します。そして自身を陥れた旧友に復讐を果たすのです。わたしは孫臏が夜明け前に牢屋からはい出て、女性に助け出されるまでの部分、特に心の動きの描写に言いようもない臨場感を覚えました。他にもすぐれた場面描写は多くあるのですが、孫臏の脱獄が見つかれば極刑に処せられるという不安と戦いながら助けを待つ気持ち、そして救い出された時にようやく覚えた安堵感の描写。そこに海音寺氏の筆力の非凡さを感じるのです。

  海音寺氏自身は孫武の存在を疑っていたようですが、さほど多くはない中国の孫子に関する資料をもちいて、まるで実在の人物であるかのように描かれていることには驚嘆の念を禁じ得ません。海音寺潮五郎は司馬遼太郎や池波正太郎よりも一世代前の作家です。しかしその小説が持つ魅力は、けっして彼らにおとるものではないと思います。『孫子』がたびたび再刊されているのも、それゆえではないでしょうか。蛇足ですが、同様の題材をあつかったものに、鄭飛石著、李銀沢訳『小説孫子の兵法』(光文社、1986年)が有ります。海音寺氏の『孫子』とは人物像の描写が異なっていますので、読み比べてみると面白いでしょう。

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