神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。 詩編51編 12節

~ 女の子のお皿洗い ~

私は今年の2月22日から3月2日まで大学生たちとボランティア実習の引率のためにタイに行って来ました。本学院は数年間、あるNGO団体を通して支援活動を行っていますが、そのうちのひとつのある支援学校を訪れることができました。この学校は、タイの東側にあるタプラヤという地域にあるのですが、カンボジアの国境付近に位置する開発地区でした。この学校にはタプラヤ地区の子どもたちがおよそ70%、カンボジア出身の子どもたちが30%ほど在籍しているということですが、子どもたちのご両親のほとんどは都会などに出稼ぎに行っている状況で、お祖父さんとお祖母さんのもとで育てられているのだそうです。それから、この学校にはプリスクールと呼ばれている就学まえの幼稚園がありますが、4歳児と5歳児の園児たちが数十人在籍していました。私たちが訪れたときは、ちょうど園児達のランチタイムでした。食事が終わり次第みんな部屋に戻りましたが、ひとりのスタッフの方と女の子ひとりが残って皿洗いを始めました。皿を洗うのはこの5歳児の女の子の役割で、スタッフの方はただ食器棚に置くだけでした。お皿洗いは慣れていた様子で、何もしゃべることなく、最後まで全員分を淡々とやってくれました。お皿洗いは、毎日の当番制だそうです。
私はこの9日間の旅で、学生たちの代わりにたくさんの写真を撮り続けましたが、一番印象的な写真を1枚選ぶとしたら、迷わずにこの写真を紹介します。ここは、開発地区ですから、水の環境もよろしくありません。気温も高く、飲み水はウォーターサーバーがないと飲めません。しかし、この女の子の皿洗いは、とても丁寧で見事でした。

無題1

写真の写りは良くありませんが、女の子はきょうの糧に感謝している気持ちがあふれている様子で、お皿一つ一つを、しっかりと洗い流していたのです。観ている私は、いつの間にか笑顔になりました。まるで私の心もこの女の子の洗う皿とともにキレイになっていくような気がしました。
お皿洗いと洗濯は必ずしなければならない家事です。今は親がやってくれてるかも知れませんが、梅光幼稚園の園児達も、いずれは自分でできるようにならないといけません。
いくらキレイな服でもいつかは必ず汚れます。小さな汚れでも放っておくとシミになり、なかなか落ちなくなってしまいます。
同様に、人の心も汚れていると聖書は教えます。しかし、自分で心をキレイにすることはできません。それは心の中が罪でいっぱいだからです。
 イエスさまは人の罪の汚れを、あの女の子のお皿洗いのようにキレイに清めてくださいました。それ故に、私たちは笑顔を浮かべることができるのです。
 人は、時々自分の犯した罪に気づかないことがあります。そのようなときは、自分の罪が何かを神さまに教えてもらいましょう。自分の弱さを教えてもらうのも良いかも知れませんね。