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死めくりカレンダー〜日本の歴史 365人の死にざま〜
 6月27日
   上田秋成(うえだあきなり)

 享保19〔1734〕〜文化6〔1809〕年、76歳にて没。江戸時代の和学者・歌人・浮世草子ならびに読本作者。浪花生。怪異を通して人間の内奥にうずまく執着の醜さ・哀しみを描く読本の傑作『雨月物語』が有名。真淵門下の和学者が理想とした古代的人間像をふまえながら、数奇な運命をたどった人物の伝に取材して、彼らの挫折や得悟を描いた『春雨物語』の評価も格段に高い。伊勢物語や万葉集の研究もあり、煎茶道においても史上重要な位置を占める。


  寛政9年師走、64歳の秋成は京知恩院門前袋町の宅で愛妻・瑚l尼を失った。他と相容れぬ狷介ぶりを謳われた男の数少ない理解者であった。悲嘆ぶりは激しく、時に妻の亡魂を幻視していたふしもある。更に翌年4月から右目の視力に故障を覚えるうち両眼不自由となる。大坂で出張開業していた眼医・谷川兄弟の治療で左目は視力を取り戻すが、翌々年再度治療に下坂した折には親族の菩提寺であった大通寺塔頭実法院に「客死した場合に備え、檀那寺を証する書を首にかけて行く。死んだと聞いたら自分の忌日も養父や妻同様15日を当ててほしい」と書き送る程覚悟を極めていた。
  享和2年、69歳。南禅寺門前、西福寺の庭の紅梅の下に墓を建てる。台石は蟹型。言い伝えによると伊藤若冲が羅漢を彫った残りの石にのみをふるったものという。石の形は、幼少時に罹患した疱瘡の後遺症で両手指に一部障害があったのを、自虐的精神から蟹のはさみに見立てていたことに通じている。この疱瘡で秋成が死線をさまよった際、養父は子に68の寿命を与えるという加島稲荷の告げを感得したのであったが、秋成は69の年も無事越して、結局七十賀を迎えることができた。この年は万葉評釈『金砂』・史論『遠駝延五登』の稿が成ったとされ、執筆意欲は旺盛であったが、2年後の文化2年から肉体的精神的な疲弊が顕著になる。文化3年にものされた書簡に次のような記述がある。
  「この夏は次第に病気をこじらせ、食も細り、一晩中咳して夜明けを待つ。死花は秋に咲くものか、同じことなら蚊帳がいらなくなってから死にたいと願うのみ」(7月17日、松本重政宛)、「秋暑がとにかく厳しく病中の身には大いにこたえる……病屈のせいか老いのせいか、長歌文章はできかねる」(7月17日、長谷川宛)。いずれの書簡においても甲賀文麗が描いた蟹型の墓石の絵を見せたいといっているのは、秋成が死にとらわれていた証である。また松本宛書簡で「23年来の反故が山とたまったので、これを集めて庭の隅に埋めたらば、この世に名残とてない」と語る。
  予告通り、文化4年、南禅寺常林庵裏の鶉居庵脇の井戸(現在夢の井として遺構が残る)に「無益の草紙、世に残さじ」と『金砂』等の草稿を投げ入れた。かかる奇行の後も『春雨物語』『胆大小心録』に手を入れていたのだから、秋成にとって書くことは逃れえぬ業障である以上に、死と狂のはざまでかろうじて生の律動を聞き分けるための行為であったか。『春雨物語』文化5年本成稿の年の7月、遺言を認め、10月、養父五十回忌に下坂。最後の旅であった。翌年、以前も住んだことのある門人・羽倉信美の通称百万遍屋敷にて瞑目した。遺体は荼毘に付され、西福寺の蟹石のもとに葬られた。十三回忌に建てられた現在の墓標には「大坂出生之人歌道之達人」「三余斎無腸居士」と刻まれた。
 

(Shylock Hermes)
 
 なお秋成の宿痾については大場俊助著『上田秋成研究』に詳しい。 
 

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