「今年は僕が死ぬかもしれない」
漱石が寺田寅彦に宛てた年賀状(大4・1)の一文である。これを読んだ寺田はさぞかし驚いただろう。しかし、漱石がこのような不安を抱える原因はいくつも思いあたる。まず、持病(胃潰瘍)の悪化。明治43年8月、療養先の修善寺温泉にて大吐血し、30分間意識不明に陥っている(「修善寺の大患」)。さらに身近な人間の死も相次いだ。主治医の長与病院長、恋愛相手と噂された大塚楠緒子、愛娘の五女ひな子。特に、ひな子が急死した時の状況は『彼岸過迄』の「雨の降る日」章にくわしい。(「雨の降る日」は、ひな子の誕生日に起稿、100日目に脱稿している。)
自らの死期を悟ったのか、漱石の心境にも変化がみられる。和辻哲郎には「私は今道に入ろうと心掛けています」(書簡、大2・10)と宣言し、漱石を慕う若い禅僧 鬼村元成・富沢敬道との文通による交流もはじめる(大4・12)。宗教に懐疑的であった漱石は、どこにいってしまったのか。また、『硝子戸の中』(大4・1)には飼犬の死を丁寧に描く。小犬の頃はかわいがられていたのに、その存在を忘れられたまま孤独な最期を迎えた飼犬と病に苦しむ自身を重ねあわせ、床の中からじっと天井を見詰める「私」。犬の墓標には、《秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ》という一句が記された。
大正5年11月、『明暗』執筆中の漱石は、書斎で原稿用紙に「189」という回数を記したところで倒れ、そのまま死の床につく。12月9日、漱石は、枕元に集まった子どもたちに笑顔を見せ、「泣くんじゃない、泣くんじゃない、いい子だから」と声をかけた。その夕方に病状が急変。鏡子夫人をはじめ、弟子たちが見守るなか息を引き取った。青山斎場にて行われた葬儀の受付には芥川龍之介らが座り、弔問には森鴎外の姿もあったという。
夏目鏡子夫人の申し出により、漱石は長与又郎に解剖された。記録によると「夏目先生ノ脳ハ普通ノ人ノ平均ヨリハ少シ重カツタ」「左右ノ前頭葉ト顱頂部ガ発達シテ居ル」という。その脳は、今も東京大学医学部に保管されている。 |