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10. 源平の合戦と潮流

 『平家物語』の作者は、おそらく関門海峡を見ていない。潮流の激しさは知っていたが、どうやらそれは、間接的な知識だったようだ。「たぎりておつる塩」と表現はしたものの、もう一歩踏み込んで、その潮流が戦いにどう影響したのか、という点に思いをめぐらすことはなかった。
 
  潮流は、源平の合戦に、どのように影響したのだろうか。源平の合戦と潮流との関係にふれた文献は、おおむねつぎのように説明している。
 
  当日の午前は、東流。西から東への流れに乗った平家が、はじめは優勢だった。ところが、この間に決着はつかなかった。午後になると、潮は西流に変わる。形勢は逆転した。東側に位置した源氏が、けっきょく、流れに乗って勝った。
 
  この説明は、大正3年(1914)に刊行された『義経伝』にもとづいたものだ。海軍の潮流資料をふまえた、当時としては、それなりに科学的な裏付けのある説だし、なによりも著者の黒板勝美が、東京帝国大学助教授の著名な歴史学者だということもあって、おおきな影響力をもった。以来、『平家物語』の注釈書、地域史、観光案内のパンフレットなどは、こぞってこの説を引用した。
 
  しかし、コンピュータの発達は、およそ80年間信じられてきたこの説に、疑問を投げかけた。潮流はじつは、勝敗に影響を及ぼさなかったというのだ。コンピュータを駆使した金指正三説(『無敵義経軍団』NHK歴史への招待第5巻 1990)と、黒板勝美説とを対比する。
 
  黒板勝美説 金指正三説
東流開始

8:30  … 0

8:10  … 0

東流最速

11:10 … 8ノット

10:30 … 1.4ノット

西流開始

15:00 … 0

14:05 … 0

西流最速

17:45 … 8ノット

16:20 … 0.9ノット


  思わず目を疑うほどの差だ。金指正三説に対しては、数値が低すぎるとの批判もある。今後、研究がさらにすすめば、数値は多少変わるかもしれない。けれども、勝敗の帰趨が潮流に左右されたものでないことは、どうやら動かないようだ。
 
  念のために断っておく。この数値は、海底に国道トンネルが走り、関門橋がかかっている海峡のもっとも狭い部分での速度だ。ここから遠ざかるにつれて、とうぜん流れはゆるやかになる。潮流の主軸から外れると、さらにゆるやかになる。
 
  海峡の最狭部に、長時間留まって戦い続けられるはずもない。合戦の場については次回に取り上げるが、最狭部の東側の、大きく開いた海域だったとみられる。そのあたりでは、戦況に影響を及ぼすほどの流れはなかったのだ。勝敗の分かれ目は、潮流とは別のところにあったと見なければならない。
 
  それにしても、なんの疑いもなく、〈権威〉に追随する風潮はこわい。
(宮田 尚)

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